Se connecter扉の向こうから聞こえた父の声に、エララの身体は火刑台へ戻されたように強張った。
一年後、ヴェイル公爵は娘の死刑判決書へ署名する。処刑当日には貴族席の最前列に立ちながら、最後までエララと目を合わせようとしなかった。それどころか、家名と領民を守るために正しいことをしなさいと、死にゆく娘へ姉としての役目まで押しつけた。
その父が、今は同じ扉の向こうにいる。
「エララ、聞こえているのか。儀式の時間まで余裕がない。早く開けなさい」
「少々お待ちください。まだ入浴前ですので、せめて上着を羽織らせていただきます」
返事をした自分の声が思ったより落ち着いていて、エララは少しだけ安心した。
恐怖が消えたわけではない。父の低い声を聞けば、地下牢で死刑判決書を見せられたときの記憶が蘇り、今にも両手が震えそうになる。それでも、未来を知るエララが平静を失えば、相手へ余計な情報を与えることになる。
リナは急いで厚手の室内着をエララの肩へ掛けると、小声で尋ねた。
「旦那様には、お身体の具合が悪いとお伝えしますか。先ほどのように息が苦しくなったら、儀式どころではありません」
「いいえ。今はまだ黙っていてちょうだい。父には、私が昨日までと何も変わっていないと思わせておきたいの」
「何も変わっていない方は、実の父親が訪ねてきただけで、そのようなお顔にはなりません。何をなさるおつもりかは聞きませんが、せめて私まで敵に回さないでください」
「あなたを敵にするつもりはないわ。ただ、私自身にも分からないことが多すぎて、今はすべてを話せないの」
「それなら、話せないときは話せないと仰ってください。平気なふりをしてごまかされるより、私も余計な想像をせずに済みます」
リナの言い分はもっともだった。エララは小さく頷き、扉を開けるよう命じた。
ヴェイル公爵は、開いた扉の前で不機嫌そうに眉を寄せていた。
濃紺の正装を身につけ、胸元には王家から授けられた銀狼勲章を飾っている。五十を過ぎても姿勢はよく、淡い金髪に白いものが混じり始めた今も、社交界では端正な紳士として知られていた。
エララの髪は父譲りだった。
幼いころは、それが嬉しかった。亡き母に似た灰青色の瞳と、父に似た淡い金髪を持つ自分は、二人から愛された証しなのだと思っていた。
けれど、火刑台の上では、この髪が燃える臭いを嗅ぎながら死んだ。
「まだ寝衣ではないか。今日がどれほど重要な日か、理解しているのか」
父は部屋へ入るなり、娘の顔色を気遣うより先に衣装を確かめた。
「承知しております。予定どおりに支度を進めますので、ご心配には及びません」
「ならばよい。今朝のお前は様子がおかしいと、ミレルが心配していた。儀式を前に緊張しているだけなら構わないが、王家の前で失態を見せることだけは許されない。今日のお前は一人の娘ではなく、ヴェイル公爵家を代表して聖壇へ立つのだ」
「私が倒れた場合も、失態として叱責なさるのですか」
「縁起でもないことを言うな。聖女であるお前が、自分の体調すら整えられないはずがないだろう」
父は当然のように答えた。
エララは、自分が疲れたと言うたび、同じ言葉を聞かされてきた。聖女なのだから、自分くらい治せるだろう。王太子妃になるのだから、人前で弱音を吐いてはいけない。姉なのだから、妹を不安にさせてはならない。
エララの力が他人の傷を癒やせても、疲労まで無限に消せるわけではないという説明を、父は一度も真剣に聞かなかった。
「お父様は、今日の儀式で必ず私とルシアン殿下が真の番であると証明されるとお考えですか」
「何を当たり前のことを聞いている。お前は幼いころから殿下の伴侶として育てられ、教会も二人の間に番の兆しがあると認めてきた。今さら異なる結果が出るはずがない」
「もし、教会の予言と異なる結果が出たなら、私の味方をしてくださいますか」
「異なる結果など出ない」
「もしものお話です」
父は、面倒なことを尋ねる娘を見る目をした。
「教会が正式に示した結果であれば、我々は従うしかない。王家と教会を敵に回してまで、一個人の感情を押し通すわけにはいかないからな。しかし、なぜ急にそのようなことを気にする。何か心当たりでもあるのか」
「いいえ。ただ、儀式がどのような結果になっても、娘の幸せを願うと仰っていただければ安心できると思っただけです」
「お前はもう子どもではないのだから、言葉だけの慰めを求めるな。公爵家に生まれた者の幸福は、家と国へ貢献することで得られる。お前も、これまでそう理解してきたはずだ」
「ええ、理解しているつもりでした」
少なくとも、一度目の人生では。
父は、自分の言葉に娘が納得したと思ったのだろう。わずかに表情を緩め、室内へ視線を巡らせた。
「それから、今日の儀式にはミレルも同席させる。お前が正式な王太子妃となれば、姉妹で以前のように過ごすことは難しくなるからな。あの子は、お前に置いていかれるのではないかと不安に思っている」
「同席は、以前から決まっていたのではありませんか」
「招待はしていたが、当初は一般の親族席へ座らせる予定だった。だが、本人がお前の身支度を手伝い、姉妹として聖壇の近くに立ちたいと望んだ。お前にとっても、祝福してくれる家族が近くにいたほうが心強いだろう」
エララは返事をせず、父の顔を見つめた。
一度目の儀式で、ミレルは聖壇のすぐ近くにいた。エララが倒れた直後、彼女の腕へ銀色の番印が浮かび上がったため、教会はその場でルシアンの真の番だと宣言できた。
もしミレルが一般の親族席へ座っていれば、印が現れても気づかれるまで時間がかかったはずだ。少なくとも、何百人もの貴族が見守る前で、エララが捨てられることはなかったかもしれない。
「それは、ミレル本人が望んだのですか」
「そう言ったではないか。あの子は昔からお前を慕っている。姉が王太子妃となる晴れの日を、少しでも近くで祝いたいと願うのは当然だろう」
「お父様が許可なさったのですね」
「何か問題があるのか」
「いいえ。確認したかっただけです」
父は不審そうに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「今日はミレルにも優しくしてやりなさい。あの子は、お前ばかりが母親の遺産と聖女の地位を受け継ぎ、自分には何もないと思い悩んでいる。お前が王太子妃となった後、よい縁談を探してやると伝えてはいるが、姉妹の間で不公平があると感じているようだ」
「母の遺産を受け継いだのは、私が母の実の娘だからです。それを不公平と呼ぶのなら、ミレルが継いだ実母の遺産も、私と分けるべきだったのではありませんか」
「ミレルの母が残したものは、わずかな宝飾品だけだ。お前が受け継いだ領地や基金とは規模が違う」
「規模が違うからこそ、分けなければ不公平だとお考えなのでしょう?」
「今日は議論をしに来たのではない。お前は時折、言葉の細部へこだわり、話を難しくしすぎる。ミレルが寂しさを感じているなら、姉として寄り添ってやればよいだけだ」
父は話を打ち切り、扉へ向かった。
昔のエララなら、自分が冷たい姉だと思われたくなくて、すぐに謝罪していただろう。母の形見も王太子との時間もミレルへ分け与え、それでも妹の寂しさが消えなければ、自分の配慮が足りなかったと反省したはずだ。
「お父様」
呼び止めると、父は振り返った。
「何だ。まだ不満があるのか」
「いいえ。今日、何が起きても、私が家のために黙って受け入れるとは思わないでください。そのことだけは、先に申し上げておきます」
「何も起きはしない。くだらないことを考えていないで、早く支度を整えなさい」
父は苛立たしそうに答え、部屋を出ていった。
扉が閉まると、リナが長く息を吐いた。
「旦那様は、娘の晴れの日に何を話しにいらしたのですか。お祝いの言葉を一つくらい仰っても罰は当たらないと思いますけれど」
「ミレルを聖壇の近くへ置くと、私に認めさせるためでしょうね。おそらく、父は本当にそれだけのつもりなのでしょう。自分の許可が何に利用されるのか、考えようともしていないわ」
「何に利用されるのですか」
「それを確かめるために、今日は大聖堂へ行くのよ」
エララは答え、それ以上の説明はしなかった。
冷たい水に近い湯で身体を洗った後、リナと二人の侍女に手伝われながら礼装へ着替えた。白銀の布地には、月明かりを受けて開く花が銀糸で刺繍されている。胸元と袖口へ真珠が縫いつけられ、腰から流れる薄布は歩くたびに光を反射した。
それは一度目の人生で、エララが火刑に処されるまで一度も袖を通さなかった衣装だった。
儀式が失敗に終わった後、王家は縁起が悪いという理由で礼装をヴェイル家へ返した。父は保管を許さず、ミレルの婚礼衣装へ仕立て直すよう命じたが、銀糸をほどく作業中に誤って火が出たため、結局は灰になったと聞かされている。
「よくお似合いです。鏡の前へ立っていただけますか。腰の飾りが少し右へ寄っている気がします」
「その飾りは、どちらの予算で作られたの?」
「昨日から、そればかりお尋ねになりますね。礼装も飾りも、奥様がお残しになった王太子妃準備基金から支払われたと、衣装係が申しておりました。王家から贈られたのは、こちらの月冠だけです」
「それなら、何が起きても礼装は脱がなくてよさそうね」
「破談になっても衣装は返さないおつもりなのですか」
「私のお金で作ったものなら、当然でしょう」
「儀式へ向かう花嫁の言葉には聞こえませんが、エララ様が笑っていらっしゃるなら、今はそれでよいことにいたします」
リナが腰の飾りを直していると、控えめなノックの音が響いた。
「お姉様、入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえた声は、父のものよりもエララの胸を複雑に揺らした。
ミレルを憎んでいる。
毒をすり替え、姉の婚約者を奪い、火刑台の前で何も言わなかった妹を、簡単に許せるはずがない。
それでもエララは、幼いミレルが雷の夜に枕を抱えて寝室へ来たことも、熱を出した姉のために味の濃すぎるスープを作ったことも覚えていた。優しかった時間まで嘘だったとは思いたくなかった。
「入りなさい」
扉が開き、淡い青色の礼装をまとったミレルが姿を見せた。
蜂蜜色の髪は柔らかく結い上げられ、耳元には小さな月石が揺れている。エララより二歳年下の妹は、昔から愛らしく、誰かに守ってもらうことが自然に見える娘だった。
ミレルは姉の姿を見ると、灰青色の瞳を大きく見開いた。
「まあ、お姉様、とてもお綺麗です。月の女神が地上へ降りてきたようで、私などが隣に立ってよいのか不安になるくらいです」
「あなたもよく似合っているわ。その髪飾りは新しいものね」
「お父様が、今日のために用意してくださったのです。お姉様の月冠ほど立派なものではありませんけれど、私はこれで十分です。お姉様の大切な日に、私まで目立ってはいけませんもの」
そう言いながら、ミレルは無意識に月冠へ視線を向けた。
一瞬だけ羨望が浮かび、すぐに姉を祝う笑顔で覆い隠される。エララは、その感情を見なかったふりにしなかった。
「気に入っているのなら、もっと嬉しそうにしてよいのよ。私と比べて、自分のものを小さく扱う必要はないわ」
「お姉様は、何でも持っているから、そのように仰れるのです。聖女の力も、お母様から受け継いだ領地も、王太子殿下との婚約も、すべてお姉様のものですもの。私が少しでも羨ましいと言えば、身の程を知らない妹だと思われてしまいます」
「私が、そのように言ったことがある?」
「ありません。お姉様はいつも優しいです。だから余計に、自分が嫌になるのです」
ミレルは俯き、目元へ涙をにじませた。
「私、お姉様が嫌いなわけではないのです。本当に大好きですし、今日のことも心から嬉しく思っています。ただ、お姉様が王宮へ入ってしまえば、私のことなど忘れてしまうのではないかと思うと、寂しくて仕方がありません。お姉様は大勢の人に必要とされていますけれど、私は家の中でさえ、お姉様の妹でなければ誰にも覚えてもらえないような気がするのです」
それは嘘ではないのだろう。
ミレルは姉を慕いながら、同時に憎んでいる。自分が苦しい原因をすべてエララに求めなければ、父に愛されたいと願い続けてきた自分の人生が、あまりにも惨めに思えてしまうのだ。
「ミレル、私が何を持っているように見えても、それが私の望んだものとは限らないわ。聖女の力も王太子妃という地位も、私が幼いころから当然の役目として与えられたものよ。羨ましく思うことを責めるつもりはないけれど、私の人生を幸せだと決めつけて、それを奪えば自分も幸せになれるとは思わないで」
ミレルの肩がわずかに震えた。
「奪うだなんて、どうしてそのようなことを仰るのですか。私は、お姉様のものを欲しがったりしません」
彼女の声とともに、細い黒糸のようなものが指先から伸びた。
それは床へ落ちる前に消えたが、エララにははっきりと見えた。真実と意思が一致しない誓いに現れる、壊れた契約の糸だった。
一度目の死を経験したことで、眠っていた誓紋師の力が強まっているのかもしれない。
エララは黒糸を見たことを悟られないよう、表情を変えなかった。
「そう。それなら、私の考えすぎだったわ。ごめんなさい」
「いいえ、私こそ、儀式の朝に余計なことを話してしまいました。お姉様は昔から緊張すると食事が喉を通らなくなりますから、それが心配で来たのです」
ミレルは涙を拭うと、付き添っていた侍女から銀の盆を受け取った。
盆の上には、小さな薬瓶と二つの銀杯が置かれていた。一つには淡い乳白色の液体が注がれ、もう一つには口をすすぐための水が入っている。
エララの鼻へ、甘い花とわずかに青臭い葉の香りが届いた。
一度目と同じ薬だった。
「これは何かしら」
「緊張を和らげ、聖力を安定させる滋養薬です。王宮の侍医へお願いして、お姉様のために特別に調合していただきました。少し苦みがあるそうですから、こちらの水もご一緒にお持ちしました」
「王宮の侍医へ、あなたが頼んだの?」
「お父様を通してお願いしたのです。昨日届いたものですから、品質に問題はありません。私も味見をしようと思ったのですが、お姉様の聖力に合わせた薬なので、普通の人間が飲むと身体へ負担がかかると言われました」
ミレルは、薬杯を両手で持ち上げた。
「お姉様、飲んでください。せっかくの儀式で体調を崩されたら大変ですもの。私、お姉様には誰よりも幸せになってほしいのです」
その言葉にも黒い糸が絡んだ。
ただし、先ほどより形が複雑だった。すべてが嘘なのではない。姉の幸福を願う心と、その幸福が自分の欲しいものを奪っているという憎しみが、一本の誓いの中で絡まり合っている。
エララは薬杯を受け取った。
指先が冷える。今すぐ杯を投げ捨て、父や侍女たちの前で妹を問い詰めたい衝動が湧いた。
けれど、ここでミレルを責めても、彼女は泣いて否定するだろう。父は繊細な妹を疑う冷たい姉だとエララを叱り、薬瓶は証拠として調べられる前に処分される。
「ありがとう、ミレル。あなたが用意してくれたのなら、いただくわ」
エララが微笑むと、ミレルの表情に安堵が浮かんだ。
それが姉に信じてもらえた喜びなのか、計画が成功する安堵なのか、今のエララには判断できなかった。
「せっかくだから、最後にあなたが月冠を載せてくれる? 王宮へ入れば、姉妹で支度をする機会も減るのでしょう」
「もちろんです。私にさせてください」
ミレルは嬉しそうにエララの背後へ回り、鏡台の上にある月冠を両手で持ち上げた。
その瞬間、エララは薬杯を水の入った銀杯と入れ替えた。二つは同じ意匠で、液体の色も薄いため、背後からでは見分けられない。
月冠を載せるため、ミレルの意識は姉の髪へ向いていた。
「少し右でしょうか。お姉様は髪が多いので、私が載せると傾いてしまいそうです」
「そのままで大丈夫よ。昔、あなたが私の髪へ花を飾ってくれたときも、右へ寄っていたわね」
「覚えていらしたのですか。私、あのころは何をしても不器用で、お姉様の髪まで絡ませてしまいました」
「あのときは痛かったけれど、嬉しかったわ」
エララは鏡越しに妹の顔を見ながら、水の入った杯を口元へ運んだ。
静かに飲み干すと、ミレルの手から力が抜けた。
「これで安心ね。少し薬の味が薄いようだけれど、最近の滋養薬は飲みやすくなったのかしら」
「きっと、聖女であるお姉様に合わせて調合したからです。お身体に変わりはありませんか」
「まだ何も感じないわ。効果が出るまで時間がかかるのでしょう」
「ええ、おそらく」
ミレルは言葉を濁した。
エララは薬を飲んだふりをした自分へ安堵する一方で、妹が本当に薬の効果を待っていることに、胸の奥を抉られた。
この娘は、姉の身に何かが起きると知っている。
けれど、どこまで知っているのかは分からない。単に緊張を和らげる薬だと説明され、姉へよかれと思って持ってきた可能性も残っている。最初から毒だと知り、番印を奪うために飲ませたと決めつけるには、まだ証拠が足りなかった。
「お姉様、今日の儀式が終わっても、私を嫌いにならないでくださいね」
ミレルは、月冠を固定しながら囁いた。
「どうして、儀式の前にそのようなことを言うの?」
「何となく、不安になっただけです。お姉様が王太子妃になれば、私たちの関係も変わってしまうでしょうから」
「関係が変わるとしても、それは今日の結果を見てから決めるわ。今のうちに、何が起きても許すとは約束できない」
ミレルは鏡の中で、傷ついたように目を伏せた。
「お姉様は、少し変わられましたね。昨日までは、私が不安だと言えば、何があっても味方だと仰ってくださったのに」
「その約束が、あなたのためになっていなかったと気づいたのよ。私が何でも許せば、あなたは許される範囲を確かめるために、もっと大きなことをするようになる。私も、嫌なことは嫌だと言うべきだったわ」
「まるで、私が何か悪いことをするような言い方ですね」
「あなたが何もしないなら、気にする必要はないでしょう」
ミレルは何も答えなかった。
やがて月冠を固定し終えると、姉の肩へ両手を置き、鏡越しに微笑んだ。
「お姉様は本当にお綺麗です。きっと、ルシアン様も見惚れてしまいます。私は先に馬車へ参りますね」
「ええ。薬をありがとう、ミレル」
礼を言われた妹は、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をした。
「私は、お姉様のためにしたのです」
その言葉を残し、ミレルは部屋を出ていった。
扉が閉まるまで待ってから、エララはリナへ振り返った。
「誰も入れないで。あの薬を調べます」
「やはり、お飲みになっていなかったのですね。途中で杯を入れ替えたので驚きましたが、ミレル様の前で騒がないほうがよいと思って黙っておりました」
「よく気づいたわね」
「私は侍女です。エララ様がどちらの杯を持っていたかくらいは見ています。それにしても、ミレル様が毒をお持ちになったのですか」
「まだ毒だと決まったわけではないし、ミレルが内容を知っていたとも限らないわ。だからこそ、今は責めてはいけないの」
「エララ様は、妹君のことになると昔から慎重すぎます。毒でなければ謝れば済みますが、本当に毒だった場合、飲んでからでは遅いのですよ」
「分かっているわ。今度は、妹を守るために自分を犠牲にするつもりはない。ただ、怒りに任せて動けば、証拠を失うことになる」
エララは薬杯を鏡台の上へ移し、裁縫箱から銀針を取り出した。
液体へ浸しても、銀針の色は変わらない。一般的な毒ではないということだ。
次に、治癒薬の性質を調べるための聖晶石を取り出した。白く透き通った石を液体へ沈めると、表面へ細い紫色の筋が浮かんだ。
「これは……月草だわ」
「月草なら、治癒院でも使われる薬草ではありませんか。眠れない患者へ処方すると聞いたことがあります」
「少量なら鎮静薬になるけれど、聖力を持つ人間が濃いものを飲めば、魔力の流れが乱れるの。特に番印が完成する前に摂取すると、印の光が一時的に消えたり、別の魔力へ反応したりすることがある。死ぬほどの毒ではないから、銀針にも反応しないし、体調を崩しても緊張のせいだと思われるでしょうね」
「それでは、今日の儀式を失敗させるための薬ではありませんか」
「おそらく、そうでしょう」
エララは冷静に答えたつもりだったが、薬杯を持つ指が震えた。
自分は間違っていなかった。あの日の体調不良は偶然ではなく、誰かが意図的に起こしたものだった。
真実を確かめられた安堵と、確かめたくなかったという悲しみが同時に込み上げる。
「ミレル様が、これを用意したのでしょうか」
「本人は、王宮の侍医へ頼んだと言っていたわ。けれど、父を通したとも言っていた。誰がどこまで関わっているのか、まだ決めつけるべきではない」
「では、この薬杯を大聖堂へ持っていき、教会の前で調べてもらいましょう。王家の侍医が関わっているなら、なおさら公にしたほうがよいと思います」
「教会が信用できるなら、そうするべきね」
エララは、一度目の火刑台で判決文を読み上げた司祭の顔を思い出した。
教会は、ミレルとルシアンの印を真の番の証しとして認めた。その印が月草によって作られた偽りの反応だと知らなかったのか、それとも最初から計画へ加わっていたのか、今は判断できない。
「薬は別の小瓶へ移して保管するわ。元の薬瓶には、きれいな水へ苦みのある薬草を少し混ぜて戻しておいて。相手には、私が予定どおり飲んだと思わせたほうがいい」
「そのまま儀式へ向かわれるのですか」
「ええ。私が倒れることを前提に、誰がどのように動くのか見届ける。危険だと思うでしょうけれど、ここで逃げれば、相手は別の方法を使うだけよ」
「危険だと思うというより、ご自分が一度死んでも構わないような話し方をなさるのが嫌です。何を知っているのかは話せないのでしょうけれど、今度こそ無理をする前に私へ言ってください」
「約束するわ。少なくとも、黙って薬を飲んだりはしない」
「それは約束というより、当然のことです」
リナは不満そうに言いながらも、薬を移すための小瓶を用意した。
エララが元の薬瓶を持ち上げると、口を封じていた白い蝋の裏側に、小さな印章が押されていることに気づいた。
銀狼を囲む三枚の薬草。
それはヴェイル公爵家の印でも、ミレル個人の印でもなかった。
「この紋章……」
リナも気づき、声を低くした。
「王太子殿下付きの侍医、ガストン医師の印ではありませんか。以前、殿下から届けられた滋養薬にも、同じ印がありました」
エララは答えられなかった。
ガストンは、ルシアンが幼いころから診察を任せている専属侍医であり、王太子本人の許可なく、婚約者へ特別な薬を調合するような人間ではない。
一度目の儀式で、エララが倒れたとき、ルシアンは驚いていた。
けれど、驚いた後、彼はすぐにミレルの手を取った。
あの顔に浮かんでいたのは、本当に初めて真実を知った人間の驚きだったのだろうか。
薬瓶を封じた印章は、エララへそう問いかけていた。
第二十九話 帰らないという選択「している。自分でも呆れるほど、ひどく嫉妬している」 逃げ道を塞がれた末の告白だったからか、ケイルの声には甘さよりも苦さが滲んでいた。彼はエララから目を逸らさずにいたが、その姿は返事を求めているというより、自分の醜い感情を差し出し、拒まれる覚悟をしているように見えた。 エララは胸の奥が温かくなるのを感じたものの、すぐに喜びを口にすることはできなかった。嫉妬されて嬉しいと言えば、彼が苦しんでいることを面白がっているように聞こえる。それでも、自分を失いたくないと願う人がいる事実は、長く誰かの役に立つことでしか居場所を得られなかった彼女にとって、簡単に受け流せるものではなかった。「正直に話してくださって、ありがとうございます」「礼を言われるような感情ではない。ルシアンの名を聞くだけで腹が立ち、あの肖像画を燃やしたいと思った。王妃の暗号がなければ、額縁ごと暖炉へ入れていたかもしれない」「そこまで嫌でしたか」「嫌だった。幼い頃の絵だと分かっていても、あの男が君の肩へ腕を回している。それを君が懐かしそうに見ていると、私の知らない時間を見せつけられているようで、どうにも落ち着かなかった」「私は、懐かしいとは思いました」 ケイルの眉がわずかに寄ったが、エララは言葉を取り繕わなかった。「同時に、苦しいとも思いました。あの頃の私は、ルシアンの隣で微笑むことが自分の幸せだと信じていましたから。絵の中の自分を見ていると、その子へ何を教えてあげればよかったのだろうと考えてしまうのです。もっと早く逃げなさいと言うべきだったのか、それとも、あなたが信じた気持ちまで恥じなくてよいと伝えるべきだったのか、自分でも分かりません」「両方でよいのではないか」「両方ですか」「信じたことは恥ではないが、傷つけられ続ける必要もない。幼い君が間違っていたのではなく、その信頼を利用した者が間違っていた。私なら、そう言う」 エララはしばらくケ
第二十八話 嫉妬深い竜の質問 肖像画の裏から浮かび上がった王妃セラフィーナの救援要請は、月光が雲に遮られると同時に消えた。 銀色の文字が見えなくなったあとも、エララには王妃の切迫した声が聞こえているような気がした。ルーナ王宮は教会の手へ落ち、王も王太子も人工の番印によって判断を歪められている。かつて王妃がどこまで真相を把握し、誰を信じて準備を進めていたのかは分からないが、教会の監視をかいくぐって暗号を残した以上、危険が迫っていたことだけは間違いなかった。 エララは肖像画を胸元から離すと、月明かりの残る卓へ慎重に置いた。「この暗号が書かれたのは、十年以上前です。当時から王妃陛下は、教会が王家を操っていると気づいていたのでしょうか」「暗号そのものは、最近書き加えられた可能性もある」 ケイルは肖像画の裏板を調べながら答えた。表面の木は年月を経て黒ずんでいるが、裏紙の一部だけは接着剤の色がわずかに新しい。「古い肖像画を隠し場所に選び、君が婚約を拒絶したあとで文章を追加したのかもしれない。そうでなければ、『この絵があなたのもとへ戻されたとき』などという書き方はしないだろう」「王妃陛下が自分で封筒へ入れたと思いますか」「その可能性は低い。使者を自由に動かせるなら、もっと分かりやすい方法で助けを求められたはずだ。王妃はルシアンがこの絵を君へ送ると予想し、先回りして暗号を隠したのだろう」 ケイルはそう分析しながらも、肖像画の表へは視線を向けようとしなかった。少年時代のルシアンが幼いエララの肩を抱いている構図を、意識して避けているのが分かる。 リナは二人の間に流れる微妙な空気へ気づいたらしく、肖像画の上へ布をかけた。「大切な証拠ですので、傷がつかないよう包んでおきます。決して、陛下が御覧になるたびに不機嫌なお顔をなさるからではございません」「私は不機嫌な顔などしていない」「左の眉が普段より上がっております」「生まれ
第二十七話 返送された離縁状 銀盆に載せられた白い封筒は、かつての婚約者から届いたものとは思えないほど冷たく見えた。 表には、『我が婚約者エララへ』と記されている。何年も見慣れていたルシアンの筆跡だった。文字の形は昔と変わらないのに、そこに込められた意味だけが、今ではまるで違って感じられる。 我が婚約者。 エララが自ら婚約を拒絶し、古い誓約を断ち切ってからも、ルシアンは彼女を自分のものとして扱っている。竜皇ケイルと正式な契約を結び、ノクサール帝国の皇妃となった事実さえ、彼にとっては一時的な反抗にすぎないらしい。「開封なさいますか」 書記官が尋ねた。 エララはすぐに答えられなかった。封筒の右下に押された王太子の印は本物であり、その周囲には肉眼では見えない黒い糸が細かく絡みついている。文面を読む前から、偽りと責任転嫁が詰め込まれていることだけは分かった。「危険な術式が仕込まれている可能性は?」「魔術師が確認いたしましたが、呪いや毒は検出されておりません。ただ、ルーナ王国の外交使節は、皇妃殿下御本人へ渡すまでは中身を開くなと強く要求しております」「陛下は、この手紙が届いたことをご存じですか」「はい。先ほど報告いたしました」 エララが窓の外へ目を向けると、正門前ではケイルが民へ向かって頭を下げていた。自らの過ちを認め、妻に対する命令を撤回する彼の姿を見ながら、元婚約者から届いた親書を開くという状況は、あまりに皮肉だった。「ここへ置いてください。読むかどうかは、少し考えます」 書記官は銀盆を窓辺の卓へ置き、深く一礼して退室した。 扉が閉まったあとも、エララは封筒へ近づかなかった。 リナは薬草茶を用意しながら、何でもないことのように尋ねた。「燃やしましょうか」「まだ読んでもいないのに?」「だからこそです。読む前なら
第二十六話 守られるだけの妻ではない 紫色の煙の向こうで、銀の刃が振り上げられた。 エララは考えるより先に踏み込んでいた。ルーマを抱える女との距離は、わずか三歩だったが、人の命が失われるには十分すぎるほど遠い。護衛たちは人質を傷つけることを恐れて剣を振れず、ケイルもまた、黒炎を放てばルーマまで巻き込むため動けない。 刃が少女の首へ落ちるより先に止められるのは、自分しかいなかった。「私と契約しなさい!」 エララの声に応じて、胸の奥にある聖女の力が一気に目覚めた。伸ばした右手の甲で金色の契約印が輝き、そこから生まれた細い光の糸が、紫煙の中を駆け抜けて女の手首へ絡みつく。 女が目を見開いた。「何をしたの!」「あなたは、ルーマを殺せば依頼人から家族を返してもらえると約束されたのでしょう。けれど、その約束は偽物です。あなたの家族は最初から返すつもりなどなく、今もどこかに捕らえられている」「黙れ!」「黙りません。私には、あなたを縛っている偽りが見えます。もし私の言葉が間違っていると思うなら、ここで誓ってください。ルーマを解放し、私たちの調査に協力する。その代わり、私はあなたの家族を捜し、必ず生きて連れ戻します」 女の顔が苦痛に歪んだ。ルーマの喉へ押し当てた刃は震えているものの、まだ離れない。「あなたの言葉を、どうして信じられるのです。皇族は私たちを道具としか見ていない。あの人たちは、娘を助けてほしければ皇女を殺せと言った。失敗すれば、娘の指を一本ずつ切り落として送ると……」「だからこそ、ルーマを殺してはいけません。あなたが命令に従えば、彼らは次も同じ方法を使います。今回だけで終わると思わせていること自体が、あなたを支配するための嘘なのです」「分かったようなことを言わないで! あなたには、子供を奪われた母親の気持ちなど分からないでしょう!」「分かりません。分かるふりをすれば、それこそ
第二十五話 皇后が穀倉を開く日 ダルトンの指が皇太后イゾルデを指したまま、誰も言葉を発しなかった。 蝋燭の火が揺れ、長卓に積み上げられた帳簿の影が壁を這う。窓の外では風が尖塔を鳴らしていたが、その音さえ議場の静寂を恐れて遠慮しているように思えた。 ケイルは母を見ていた。 皇帝として疑惑を向けているのか、それとも息子として否定を待っているのか、横顔からは読み取れない。けれど、杖を握る手には血管が浮き、指先が白くなるほど力がこもっていた。「母上、何か言うことは」 ようやく発した声は冷静だった。しかし、その冷静さを保つためにどれほど感情を押し殺しているのか、隣に座るエララには分かった。 イゾルデはダルトンから目を逸らさなかった。「私が命じた覚えはありません、と申し上げれば、あなたは満足しますか」「満足するかどうかを聞いているのではない」「ならば、答えは簡単です。私は冬の備蓄を盗むよう命じておりませんし、ダルトンと西塔で会ったこともありません。ただし、私の印が使われている以上、知らぬ存ぜぬで自室へ戻るつもりもありません。私の私室、執務室、印璽保管庫を調べなさい。侍女も書記官も、必要なら全員拘束して構いません」 ローデンが椅子から腰を浮かせた。「皇太后陛下、潔白を主張なさるのですか」「今、そう申し上げたつもりですが、赤角竜家の当主は長い言葉でなければ理解できませんか。それとも、あなたは家令の証言一つで私を処刑台へ送りたいのかしら」「私は、自分の家令に裏切られたばかりです。もはや誰の言葉も信じる気にはなれません」「それは結構。領主としては、今までより幾分ましになったでしょう」 刺すような皮肉に、ローデンは顔を強張らせた。普段なら反論したに違いないが、今夜の彼には、忠臣だと信じていた男の罪を見抜けなかった痛みがある。怒りを返す気力さえ残っていないらしく、重い息を吐いて椅子へ座り直した。
第二十三話 皇太后の試験 金色の炎は、小食堂に置かれたすべての燭台を一斉に包んだ。 炎は高く燃えているにもかかわらず、蝋燭を溶かすことも、近くにある布を焦がすこともない。夜明けを迎えた室内が、もう一度朝日を招き入れたように明るくなる。 エララとケイルの胸に刻まれた誓紋は、同じ速さで脈打っていた。 互いの心臓まで一つになったような感覚に、エララは思わず胸元を押さえる。痛みはない。けれど、自分の内側へ他人の鼓動が存在するというのは、安心と不安を同時に呼び起こす、ひどく奇妙なものだった。「ケイル、何か感じますか」「お前の鼓動が、先ほどよりはっきり聞こえる。それと、腹が減っていることも伝わる」「そのようなことまで分かるのですか」「自分の空腹ではない感覚が混じっている。お前のものだろう」「先ほどから食べています。あなたの空腹ではありませんか」「俺は食欲がない」「身体の状態と気持ちは、同じとは限りません。食べたくないと思っていても、身体は栄養を求めているのでしょう」「お前は、誓紋の調査まで食事へ結びつけるのか」「今のあなたには、難しい魔法の研究より朝食のほうが必要だからです」 エララは粥へ浸した黒麦のパンを、改めてケイルの皿へ置いた。 先ほどまで二人をからかっていたルマは、金色の炎を見回しながら目を輝かせている。小さな指を炎へ近づけようとしたため、イゾルデが素早く手首をつかんだ。「触ってはなりません。熱がないように見えても、何が起きるか分からないのです」 ルマは不満そうに頬を膨らませた。「確認したい気持ちは分かりますが、指で触れなくても調べる方法はあります。紙を近づけて、燃えるか確かめてみましょうか」 エララが尋ねると、ルマは機嫌を直し、何度もうなずいた。 リナが厚手の紙を一枚、最も小さな炎